「ミを入れて」と瞑想の違い
「ミを入れて」(日本文化)と「瞑想」(外国文化)の違いについて。どちらも心身のあり方ですが、瞑想は「心を無の境地にする」、「心を空にする」ことで、自分自身を高める、修行するといった意味合いで行われるものだと思われます。
私も著書『生命の神業』(ヤの章)の中で、「空は、人のあり方の極意か」として、心を空の状態で試したことを記しました。しかし、最近になって気がついたことがあります。それは、周りの人がどのように感じるかが大切なのではないかということです。
それを試したのが今回の動画です。私が「空(無心)の状態になった時」、受けの荒川さんは横に回るように倒れます。それは私の周りを高速で回るバリア状の流れが発生する為に、それに沿うようにして転がるのです。荒川さんによれば、空の状態になった前に座ると「そのバリア(領域)には入れない」、「その領域を邪魔してはいけない」といった気持ちになるようです。
一方、「ミを入れて」の状態になった時には、荒川さんは後ろへ倒れました。この時には「その雰囲気に浸っていたい」という心地良さで、思わず出る笑いと共に、ふわっと後方へ寝てしまいます。このことで、サヌキ性(外国文化)とアワ性(日本文化)の違いを感じました。
「イキツチノワ」という言葉がありますが、これは一つ一つの細胞が自分の働きを全うすることで、全体に和しています。このような細胞のあり方が、アマココロから与えられた手本のように思いました。人も周りの生命と和していくことで、周りの生命体と共にお互いの生命力が上がることが解りました。これが本来の生命のあり方なのです。
カタカムナ時代には人々がアワ性のあり方であった為、オホ(六方環境に親和された状態)で、世界に類の無いイヤシロチを作り出していました。「ミをいれて」行えば自分も周りも良くなる。そして、ミをいれて作った日本の様々な作品にも命を感じます。
片や、瞑想には個人を高める修行といった意味合いがありますから、「宇宙即我」とか「唯我独尊」といった境地が芽生えてくるのでしょう。謂わば、自身のみの爽やかさなのかもしれません。そうなると、そこには人と隔てるバリアの如き氣の壁が生じます。元々、縄文時代には無かった瞑想です。有難いことに、彼らはそれを必要としなかったのでしょう。ヤヤコとして生まれた子は、心身を鍛えることを必要としませんでした。他の動物、植物と同様にイマタチ*を大切にしていたのでしょう。
文化は環境にも影響します。現代のサヌキ文化は自然さを無くしてしまい、生物も少なくなってしまい、病人も増えてしまいました。
かつての日本のように、人々が豊かなアワ性を取り戻した時には、天然・自然の美しさも戻ってきて、皆が本当に元気になれるのです。
*イマタチ
万象は一瞬一瞬変化しているタチ(性質)と洞察し、その変化は、アマナからカムに送られる様々な要素をカムが一瞬で集計します。さらに、そこから導き出される統計的結果をアマナに返し、それに基づいてアマナは作り替えていく、そんな性質であると把握していました。現代の人たちは、今が次の今に、そのまま川の流れのように移動していると思っていますが、カタカムナ人は、時間も空間も、刻々に発生し刻々に消滅するものであり、命も心もカムウツシ・アマウツシによって、死ぬ日まで一瞬一瞬生まれ変わっていると捉えていました。
『カタカムナで解く 魂の合氣術』 大野朝行 BAB JAPAN