カタカムナ

心とは? 命とは?

「歌のミトロカエシ」の投稿で、イキチイハ(命を持った岩)に心が通じたことを書きました。心は人間にしかないという外国文明を常識にしてしまった現代人には、心とは、命とは何なのかが解らなくなっています。改めて考えてみますと、やはりカタカムナのサトリは素晴らしいです。これこそが本当だと信じられるからです。その心と命のサトリ(物理)について記します。

 【関連するカタカムナ用語】

○アマツアキツネ

アマツ(現象)アキツ(現象)のネ(根源)とは、「アマナ」のことになります。アマナは現象を潜象に還元させ、潜象を現象に分化させます。それはマリ、ココロといった微粒子が、重合していき現象へと分化するのですが、その第一段階は、ミツゴ(イカツミ、マクミ、カラミ)の正反の素量への転換です。次の段階では、これらの素量の配列、組み合わせの違いで、生物質系モコロ、或いは物質系モコロに進展します。生物と物質の違いは、カタカムナではこの段階で決まります。

○オキミツゴ ツクシシマ アハヂノホノサワケ

イカツミ、マクミ、カラミの3素量の正反の配偶が結びついて構成されたものをモコロといいます。

一つのモコロの容孔内には体的にタテヨコナナメの8軸が回転していて、その軸上にイカツミ、マクミ、カラミを配列したものが生滅を続けながら、順次8軸を循環的に移動しているスガタをオコミツゴ ツクシシマ アワノノ ホノサワケと記しているとのことです。これは物質系のモコロです。

このモコロが根となってツクシシマ(マカハコクニ、即ち原子と分子で構成されたもの)をつくります。

○ヤヘモコロ オホヤシマ

8軸上にイカツミ カラミ マクミの3個が1組となったものが同期に生滅し、8軸が同期に回転しているスガタで、ヤヘモコロ オホヤシマといい、その配列を示した言葉とのことです。これが生命質系のモコロです。

これが根になって原子、そしてオホトヤシマ(オホワタツミつまり細胞によって構成されたもの)を作ります。

つまり、カタカムナでは生物質と物質の違いは、モコロとそれで構成される原子の段階にあるとのことです。

○マカハコクニノ ヒトツカタツミ

全ては「マカハコクニ(原子)からノ(変遷した)ヒトツカタ(相似象)のツミ(ヒトツヒトツ)のミ(ミコト)」と言っています。

○オホマノワ

オホマ(アマ)は個々のマリ(ココロ)に対して、変転極まりない融通無碍な干渉を及ぼしていること。

○シマ

シマは現象の中のヌシ(潜象)という意味になります。そこで、シマとはカムの集まった状態を言います。またシマ(流軸態、縞)の意味もあります。

○モコロマリ(微球態)モコロシマ(流軸態、縞)

モコロの性状変化と形状保全

モコロマリがモコロシマに変わるには、アマの膨張と反抗積(膨張に反抗する力との積量)に基づいて、モコロマリの内部に構成されていた六方八軸(立体的に八方に向かう軸線)がバラバラになって、単軸、双軸に分離され、更に統合するという経過があってシマ(流軸態)に変わり ます。

この時、モコロ内に3個ずつ単位となったミツゴは、それらの軸線上に配列を維持しています。

これらのミツゴの保持は、モコロの発展した物質現象粒子(基礎粒子)や生命現象粒子(基礎生命質粒子)の場合も同様です。

○モコロの性状変化

このように、モコロには内部構造の異なりがありますが、モコロというマリ(微球)は、固定的にいつも球状であるわけではなく、マリ(微球)のアナ(容孔)内の8軸が分裂したり統合したりして、時にシマ(線状流体)の相があり、又アマの分離統合性の反抗力が掛け合わされた均衡力と渦流によって分化変遷する相があります。

心のウタ –

こうしてモコロが現象単位のモノに発展する過程には、いわゆる心と称するものになる過程(潜象)があります。その心のウタを次に記します。

ヤヘヒトカサネ モコロシマ アマノサカマキ ヤヘネサク クラオタケフツ ミツハノメ クラミツハヤビ イキココロ クラヤマツミノ ヤクササネ (『相似象』3号88頁)

【訳】

①ヤヘヒトカサネ モコロシマ

物質系モコロの単軸と、生命質系モコロの8軸とが重なりあったモコロシマは

②アマノサカマキ ヤヘネサク

アマに於けるサカムキ(逆流)のマキ(渦流)によって、ミツゴの並ぶ8軸が分裂します。

③クラオクタケフツ ミツハノメ

そして軸から分離したミツゴは、正反配偶の素粒子集団となります。

④クラミツハヤヒ イキココロ

自由に掛け合わされたハヤビ(接続子)によって、多量の螺旋体に転移します。それが自己増殖能を持つイキココロ(基礎生命質)であり、心の元の相です。

⑤クラヤマツミノ ヤクササネ

心は物質系モコロと生命質系モコロの多数のココロ(小塊)がクラ(自由)にヤマツミ(積み重なり合った)モノであって、万物象のサネなのです。

⑥ヤクササネ

ヤクサ(万象)のサネ

「サネ」とは、サ(カの量)のネ(根源)ということで、万象物の最初の状態のことを言います。

サネ(実)とはタネ(種)になる元の潜象であり、サネは生命質系にも物質系にも共通に存在するアマのココロ(微粒子)の集団です。生命質系のサネはミカヒハヤヒといいます。

⑦ミカヒハヤヒ

現象に内在するアマナとサネのココロとが、八重調和的に掛け合わされたものであって、3素量交換接続子によってイノチ、即ちココロの授受が刻々に行われる構造を持ったものです。

生命質系のモコロは8軸編成ですから、アマナとサネのココロが八重調和のミカヒハヤヒに進展することができるのです。そこでミカハヤヒが生命質持続の自己増殖機能を持つ基礎生命質になるのです。

基礎生命質の物性にはマトマリというアマ(マ)とアメ(マリ)の関連、即ち微分統合性があります。

つまり基礎の生命質は、何れも積み重ねられた集団構造であり、また様々な基礎生命質がオホヤマツミ、つまり現象の形態を持つ手、足、肩、胸、胴、腰、などの筋肉はもとより、全ての内臓や骨の器官、ひいては血管・神経・リンパ管・膜・皮膚等、ミノシロ(体)を作っている個々のツミ、タカミ(全身)の細胞集団の社会構造的集団によって、有機的な生命現象や心の現象となって発現されるのです。

社会構造集団によって発現されるという事は、つまり体が弱ればアマウツシの力も弱まる事になります。

私達はアマのイノチによって成り立ち、そしてアマのココロによって成り立つ、この意味をよくよく考えなければならないようです。

アマココロのウツシツミ

私達は皆、アマココロのウツシツミなのです。アマは宇宙の全ての根源にある始元量のことであって、天とか神とかいう観念ではありません。

目には見えないが、確かにその存在を感受できる量なのです。

ココロのコは微小という思念を表し、コロはカタマリの思念です。

ですからアマココロは「アマ始元量の小さなカタマリ」という意味になります。単なる微粒子ではなく、マリには色々なタチがあります。

そしてウツシツミとは、アマウツシに総称される個々の実という意味になります。

「オホマノワ」によって、私達の体のマリは変転極まりない融通無碍な干渉を受けています。

ですから私達の体は心も頭(精神作用)も、アマココロの参与なしには成り立たないのです。

アマココロの物性

① トキ(時間量)とトコロ(空間量)

これは、マという始元の物のカサナリカエシ(重合互換)の物性に基づくものです。

時空量はマの性質に起因します。即ちマの変遷による時空の交番変化はアマの性質であって、交番変化は光速以上の速さで行われます。

②マリ(時空互換量子)

マリは物理量としては極限の単位粒子ですが、物質やエネルギーに限らず、電気、磁気、力などの素量とか、物質や生命質の基本粒子や位置量などに自由に転換しうる性質の量子です。

アマ始元量として言うときは、マリをアメといい、物の側からはココロともいいます。

そして、アメの集団系が色々な物理量に変化転換する相をアマウツシと呼びます。

③アマウツシ

アマウツシがあることで、電気、磁気、力の素量が生じ、物質や生命質の基本粒子が生じます。この基本粒子をモコロ(潜象)と称して、電気、磁気、力のそれぞれが正と反の配偶の微子で構成されています。

アマウツシは現象物ではなく潜象であって、色々なモノ(現象)と重合しています。

つまり、一切の現象にはアマの分身が秘められていています。現象と潜象とが共有されているその境界が、アメ(マリ)の密度の高い集団、即ちアマナです。

アマナ(潜象)の役割はアマウツシの授受によって、潜象を現象に分化させ、また現象を潜象に還元させることです。

④ソコタチ(膨張性)とソギタチ(収縮性)

アマのこの両性は、潜態に於いて偏在する交番の仕方をしています。言い換えると部分的な偏りがあるために、多重周期のカタチ(象)で交番変化が行われます。このことをアメノウヅメとも言います。

ソコタチ・ソギタチはイサナミ・イサナキを原理的に表示する言葉です。極簡単に記しましたが、カタカムナには更に微細なことも色々と記されています。

万象万物には心も命もある –

万物万象には心も命もあります。そして心とは命のことでした。

心は現象ではなく、現象背後にある基礎量(イカツ素量、マクミ素量、カラミ素量)が、集団的に親和重合したイキココロ(重アマウツシ)なのです。

直感力を失った現代人にとっては、花の微笑み、風のささやき、眠れる大地、月との会話といったことも、形容詞的な言葉としか受け取れませんが、昔の日本人は「万象万物の全てを生き物」として感受していましたから、岩の声を聞くとか、草や虫と会話するとか、現代人にも居ますが(何人かと出会いました)、かつての上古人にとっては当然のあり方だったのでしょう。