カタカムナ

カタカムナ ウタ 第52首

タマキソラ アキクヒノウシ オキサカル ナギサヒコ オキツカヒヘラ ナミ

【用語の訳】

○タマキソラ
タ(独立した)マ(マリ、アメ)がキ(発生)してソ(其処)にラ(あらわれ)ました。

ソコ(其処)とかソチラ(其方)と云う時は、コチラ(此方)よりも少し離れたトコロを意味します。ソコタチは「ソコに繰り返し広がるタチ」になり、ソギタチはソコにキ(発生)がタ(独立的)にチ(持続)することになります。

○アキクヒノウシ
ア(現象)にキ(発生)したものは、ク(自由)さを以てヒ(ヒフミヨイのヒ)からノ(変遷)してウ(潜象界面)からシ(示)されたものです。

ちなみに、クヒとは天然の行いの自由さ、つまりマノスベです。そのクヒを行う働きをカタカムナ人はカム、アマツカミ、カムナガラ、カタカムナと言いました。日本の神は自由さが大好きですから、人を制限したり、束縛したりはしません。ですから、悔いるといった思いは外国文化がもたらしたものなのです。動物達のようなオノズサリ(天然のあり方)であれば、悔いるは無いでしょう。

過去はもう無い。今を生きるだけなのです。

○オキサカル
オ(六方環境)にキ(発生)してサ(カからサカレた量)なりのカ(カミ)としてル(存在)するナギサヒコなのです。

○ナギサヒコ
ナ(何億回と繰り返して)ギ(発生を繰り返す)サ(カの量)のヒ(根源のヒ)のコ(繰り返し反復発生するもの)です。

これは神の働きですね。このような天然、自然の在り方によって、生命体が維持されています。私達は皆ナギサヒコなのです。

これらは

○オキツカヒヘラナミ
オ(六方環境)からキ(発生した)ツ(個々)のカのヒ(根源)のヘ(方向性を以て)ラ(あらわれ)るナミ(生命保持や生命活動の爲の繰り返されるミ)なのです。

渚に現れる波の変化、これが私達の姿と同じと考えたこともありませんでしたが、考えて見て下さい。なる程、同じかも知れません。過去を悔いる余裕などありませんね。

【補足】

上古代の後氷期にカタカムナ人が、マノスベ(天然的)の生き方を言葉化することで天然的な動物次元を脱皮して、人間としてのマノスベの生き方をサトルことができました。これが日本語の起源であり日本文化の根拠となっているのです。

生命には二つの性(アワの感受性とサヌキの判断能力)があります。この生物脳と人間脳とを相伴って鍛えることで、天然的に寿命を全うして生き得るというフトマニ(正反重合発生)の物理を開発していたのです。

○アワ
感受性。直観力。生命活動は感受性のミが入らなければ発動しません。我々の生命はアワ(感受性)のミ(チカラ)と感受に従ったサヌキ(脳)の判断行為といった、正反のバランス(フトマニ)があってこそ、マノスベ(天然的)の状態に生かされるのです。

○サヌキ
現象を動かす力、人間脳での判断力。

【『古事記』に登場する言葉】

アキクヒノウシ(飽咋之宇斯の神):
黄泉の国から脱出したイザナギの命が禊ぎをした時に、第6番目に投げ捨てた冠(帽子)から化成した神。冠は大きな口を開けている様から、飽きるほど食べて残りを散らかしたとみた命名。名義は道祖神のこと。

オキサカル(奥疎の神):
続いて、第7番目に投げ捨てた左手の手巻き(手首に巻く装身具)に化成した神。手巻きは真珠や貝殻で作るので、この神は海に流れゆく悪霊、邪気(疫病神、祟り神)の表象で、手巻きはその依代(招き寄せられて乗り移るもの)になります。

オキツナギサヒコ(奥津那芸佐吡古の神):「奥疎の神」の次に化成した神。奥津は沖の側のことで、名義は波打ち際の神寄りの男性。

オキツカヒベラ(奥津甲斐弁羅の神):イザナギの神が投げ捨てた手巻きに化成した神で、疫病神のこと。疫病神が流れ着いて、他界の境界に到ったという名義。奥津は沖の側を指すします。甲斐は交ふ、海と陸地が交叉している海岸線のこと。現し国(陸)と海は別の国(他界)と考えられていて、弁羅はその境界の意味になります。