カタカムナ

縄文時代とは

ここではいつもの話題と替えて、私たちが習ってこなかった上古の日本史についてざっと記してみましょう。

今、縄文時代に憧れている人が多いと聞きますが、縄文人は狩猟をしていたと思っている人が多いようです。しかし、日本には他に食べ物がたくさんあった時代に、狩猟という大変なことをする筈がありません。では、狩猟はたまに行ったと思うかも知れませんが、それはもっと大変なことです。カタカムナ文化が日本に普及していく中では、四足動物は先ず食べなかったでしょう。

日本での食料は野草、山菜、魚貝類で間に合いました。五穀は上古代にもありました。

さて、今の天皇制が始まったのは天皇初代であるカムヤマトイワヨヒコホホデミ天皇(神武天皇)からであって、即位は西暦に換算するとBC660年2月11日(御年51歳)でした。

それまでの日本の歴史は、『開闢神代歴代記』(富士の阿祖山神社に宝蔵伝承された記録文書)などの文献により著述したものと言われます。

※ 阿祖山神社の補足:神代に創建された小室山宮守神社、加茂山山守神社、麻呂山天照皇太神、古峯根野神社、尾崎山峰幸橙明神大社、桜山宇津高座明神大社、天皇時代に創建された福地八幡大神社の7社を惣称

さて、天皇以前の歴史を古い時代から並べると、およそBC7,500年程から始まっています。『開闢神代歴代記』の4頁には次のように記されています。

アマノヨ七代584年
アマノミナカノヨ十五代2,250年
タカマノハラノヨ7代616年
トヨアシハラノヨ5代594年
ウガヤフキアイノヨ51代2,318年と摂政が22代432年

以上を合計すると凡そ6,800年、これが神代、或いは神国と称された時代です。

一方、カタカムナ文明の発祥は数万年以前に遡ります。神代時代も含めて、現在でいうところの縄文時代等とも重なっていますから、何故、縄文時代に優れた出土物が多いのかも理解できるでしょう。そして、時代が遡るほど、日本人は健康で、長寿命であったと推測されます。

その一つが、弥生時代の神武天皇の即位2年に発せられた多方面に渡る施策の中に、保険の施策があります。ここには1日の食事(米)の分量と房事の度数が、次のように示されています。

ワラハ(7歳まで)1合。
ウナヰ(13歳まで)2合。
イカシ(20歳まで)3合。房事はなすべからず。
ハヤリ(30歳まで)4合。房事1日下り
マスラ(50歳まで)5合。2日下り
スケ(70歳まで)4合。4日下り
マスケ(90歳まで)3合。6日下り
チヌ(110歳まで)3合。9日下り
マチヌ(150歳まで)3合。随意
サキヲ(150歳以上)3合。

このような法を全国に示して、身体を健康にして病根を絶とうとしました。房事(当時はマグハヒ オメタグヒという言葉がありました)は20歳から、大人になってからということですが、現在の大人は18歳からです。

この時代は米が主食でした。ハ(歯)とハラ(胃腸)が丈夫だったのでしょうね。これこそが壮健さの元なのでしょう。

尚、年齢によって呼び方があったのは、兵役に服するとか、郷長、村長、組頭、諸将などの任期などの決め事をする際に必要としたのでしょう。

神武天皇は、皇紀76年3月11日に崩御、壽127歳、畝傍山の陵に葬りました。

因みに、お米は弥生時代に伝来したと思われていますが、日本に古来から自生していたと考えた方が自然ではないでしょうか。トヨアシハラの代は、国名を豊葦原瑞穂の国としたのも、正に米の生産が盛んだったからでしょう。都は不二山高天原にありました。富士山と名前が変わったのは天皇の時代になってからです。トアシハラの世はオオヒルメノミコトが初代の神皇ですが、この時代(約BC4,000年頃)に、筵(むしろ)で俵を作ることが始まりました。また、臼と杵を作って米、麦、粟、稗などを搗(つ)いて食することも発明されました。

米、稲穂、稻実、稲妻などは日本の言葉です。もしも外国から入ってきたのであれば、入ってきたところの名前を付けた筈です。例えば、トウモロコシ(唐、モロコシ)。ジャガイモ(ジャガタライモ、ジャカルタ)。カボチャ(カンボジア)。サツマイモ(日本には最初に薩摩に伝わった)等です。

カタカムナ時代の稲作についてのウタは、「稲のウタ」を参照下さい。また製鉄技法については「鉄のウタ」を参照ください。

オメタグヒ(雌雄性の根)については、カタカムナの頃はムツミ(親睦)カシコネ(雌雄性器)といい、カムミを保有するサネタチネ(性器)をカシコミ(畏敬し尊重する)とありました『相似象』(第5号131頁)。

ざっとですが、日本の歴史を取り上げました。イヤサカ!モロカゲサチ!