生命の神業 水月の術 2021年3月17日 一刀流によると 雑念の無い澄んだ心を古人は水月の悟りとも言いました。一刀流においては、次のように説かれています。 こころは水月のごとし心には何の思うも無きものなり映る水の上の月のごとし濁りたる水に映る時は月も朧(おぼろ)なりまたいさぎよき水に映る時は月も清月なり 水上に映る月のように、心には何の思いもない。思いが濁っていれば、月も朧に映り、水が清らかであれば、月は清月に映るということです。 いさぎよくというのは、ああだこうだと考えることなどを潔く手放して、迷うなということでしょう。 宮本武蔵の空 武蔵は心のあり方を、空と有に分けています。考えること、考えで作りだされることを有と言っています。そして空は善ありて悪なしと言っています。空とはここで言う「水月」と言っていいでしょう。 空の悟りとは 上泉伊勢守の門下で修業した丸目蔵人は「懸待一如 牡丹花下 眠猫を見るが如し」と詠んでいます。 日光東照宮には、左甚五郎の彫った「牡丹花下の眠猫」を見ることができますが、このように、眠りに近い、やる気のなさが悟りでした。 不思議ですが、そんな時は、自力ではなく他力(カムの働き)が現れるのです。「ただある、心地よさを感じている」そんな状態でしょうか。「ただある」は自分という自意識も消えます。 上泉伊勢守は「空の身に思う心も空なれば、空というこそ、もとで空なれ」と詠んでいます。「もとで空」とは何でしょう。 もとでとは根本のことでしょう。魂合気で言えば、「マノスヘ」(自然さの高いありかた)の姿勢が根本です。心の根本は、アワであり自我を出さない事でしょうか。説明が難しいのですが、江戸時代前期の剣豪の多くが、このような悟りを伝えようとしています。 上泉伊勢守は「おのずから 映らば映る 映るとは 月も思わず 水も思わず」と、解りにくいでしょうが、やるぞとか、ファイトとか、根性とか、思い切りと等という言うようなことの反対側に、この水月の悟りがあるのです。 北本道場での稽古の様子