生命の神業

水月の術

一刀流によると

 雑念の無い澄んだ心を古人は水月の悟りとも言いました。一刀流においては、次のように説かれています。

こころは水月のごとし
心には何の思うも無きものなり

映る水の上の月のごとし
濁りたる水に映る時は
月も朧(おぼろ)なり

またいさぎよき水に映る時は
月も清月なり

 水上に映る月のように、心には何の思いもない。思いが濁っていれば、月も朧に映り、水が清らかであれば、月は清月に映るということです。

 いさぎよくというのは、ああだこうだと考えることなどを潔く手放して、迷うなということでしょう。

宮本武蔵の空

 武蔵は心のあり方を、空と有に分けています。考えること、考えで作りだされることを有と言っています。そして空は善ありて悪なしと言っています。空とはここで言う「水月」と言っていいでしょう。

空の悟りとは

 上泉伊勢守の門下で修業した丸目蔵人は「懸待一如 牡丹花下 眠猫を見るが如し」と詠んでいます。

 日光東照宮には、左甚五郎の彫った「牡丹花下の眠猫」を見ることができますが、このように、眠りに近い、やる気のなさが悟りでした。

 不思議ですが、そんな時は、自力ではなく他力(カムの働き)が現れるのです。「ただある、心地よさを感じている」そんな状態でしょうか。「ただある」は自分という自意識も消えます。

 上泉伊勢守は「空の身に思う心も空なれば、空というこそ、もとで空なれ」と詠んでいます。「もとで空」とは何でしょう。

 もとでとは根本のことでしょう。魂合気で言えば、「マノスヘ」(自然さの高いありかた)の姿勢が根本です。心の根本は、アワであり自我を出さない事でしょうか。説明が難しいのですが、江戸時代前期の剣豪の多くが、このような悟りを伝えようとしています。

 上泉伊勢守は「おのずから 映らば映る 映るとは 月も思わず 水も思わず」と、解りにくいでしょうが、やるぞとか、ファイトとか、根性とか、思い切りと等という言うようなことの反対側に、この水月の悟りがあるのです。

北本道場での稽古の様子